【フリースクールの限界】
■ 主宰者のメンツ……見栄をはっていては続かない
自宅を開放し、私生活をさらけ出しながらフリースペースを運営していくというスタイルは、主宰者にとって合理的な反面、公私の区別がつきにくいというリスクをも持ち合わせております。
開設当初、妻であり母である私の素顔、私の暮らし全てが子どもたちにとって教材になるんだなぁ、と思うと、その責任の重さに「苦しい~!」と悲鳴を上げることもしばしばでした。
当然のことながら、そんな緊張状態は長くは続きませんね。
(むりむり……ええとこだけ見せるなんざ、3日と持ちません 泣)
あられ美幸。
早々に、
『こりゃ、ひらきなおって、全開、丸出しスタイルで行くしかないな!』
と観念、
ー 冷蔵校の奥でネギのみじん切りが乾燥してカラカラになっていたり、
ー 娘のパンツが洗濯機と洗面所の隙間に挟まっていたり……
(私のでなくてよかった……)
ー 靴下片方ずつがあちこちに放置されて誰かに見つけられても「てへへ」で笑顔。
大いに自分をさらけ出そう! と決めれば、何のことはない!
穏やかな日常だけが残るのでありました。
さて、そうした悟りの後、私が故意に努めたことがあります。
それは、
『自分の力の限界を認め周囲に助力を求めることを躊躇しない』
という姿勢です。
この姿勢は、私の胸の内に知らず知らず潜んでいた「フリースペースはすごいんだぞ!」と息巻いているおごりを戒め、「フリースクールの限界」をも冷静に見つめさせてくれました。
当時、アンチ公教育の代表と解釈されていたフリースクールですが、私の本意は、
『オトナになる方法はいろいろあっていいんだよ。
自分なりの方法を見つけようね』
と、子どもたちにエールを送る場所として機能したいというところにありました。
そんなメッセージを発信しようという私自身が、完璧や見栄にこだわっていては、本末転倒です。
『自分の限界を知り、助けを求めることもまた、自立である』
フリースクールでの活動や時間、私のくらしそのモノを通して、そんなメッセージを子どもたちに伝えよう……そう心しながら送る毎日でした。
■ 限界を知って、最強になる?!
概ね、その役割を果たしていたと自負していますが、残念ながら諸処の理由でフリースペースでは実現できないケアが生ずることも、当然あるわけでして。
「私ではお役に立てない、
フリースクールだけでは不十分……彼らの受け皿100%に値しないわ……」
と観念した時、私は、どうしたか……
これ、
かんたんです。
ためらわず、
周囲に助けを求めました。
学校には、学校だからこそ修得できる学習や体験が、
医療機関には医療機関にしかできない治療や療育が、
各種相談機関にはその道のプロによる心理治療が保障されているのだから、
「アンチ」どころか「敬意」を抱いて互いにタテにヨコにとネットを紡ぐべし!
と思ったからです。
と、気がつけばどうでしょう?
フリースクール開設から1年後。
学校の教師、相談所の心理士、精神科医など、普段はスーツ姿の方々が、肩書きや役職を脱ぎ捨て、ほっとすたっふの賛同者としてほっとすたっふに立ち寄り、お茶を飲みながら子どもたちと歓談していらっしゃるではありませぬか!
「役割を果たそうと精一杯努力する姿勢」
「自分の限界を恥じずに言及する勇気」
「敬意を抱いて助けを求める礼儀」
それらをバランスよく備えることで私たちは、ひとりの力の何倍ものパワーを持ち得ます。
ある日、A子ちゃんが言いました。
『私、学校へ戻る気はないけどさぁ。
あられさんと私の学校が仲良しだと安心するわ』
おぉ。
も、もう、この言葉をいただけただけで、これまでの苦労は全部チャラでっす♪
A子ちゃん、ありがとうね♪
うれしいよ★
【ならば、家庭教育は、どうよ?】
ですが……。
(むむ? ところで)と、あらためて思うのであります。
英語は英語塾で、
受験勉強は学習塾で、
体力づくりは水泳教室で、
と、今や教育もアウトソーシングの時代となりました。
この現象も一種ネットワークと言えなくもありません。
では、「家庭の役割」はどこにあるでしょーか?
■ あられ美幸は見た……びっくり「家庭教育の穴」
おとうさん、おかあさん。
びっくりしないで聞いてください。
最近私がみた光景「5大びっくり」です。
- 缶切りを使って缶詰を開けられない高校生、います。
- お茶っぱをどれくらい入れて日本茶を入れるのか知らない高校生、います。
- リンゴの皮をむいたことがない高校生、います。
- 「もやし」は、「つくし」のように地面から生えてくると思っている中学生、います。
- 生卵を電子レンジに入れて「ゆで卵」をつくろうとした中学生がいます。
う~む。
こ、これはいったい……。
世のお父さんお母さん方。
こりゃぁ、なんとかせねば、なりません。